6。, 「宇宙艦隊図録 File06 Sheet01B 地球防衛軍 宇宙戦艦ヤマト 艦内設備(1)」『宇宙戦艦ヤマト OFFICIAL FACTFILE』第52号p. 第十二卷』, 明治40年12月28日官報第7352号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ14, https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1176089, https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/966146, https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/966621, https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1062919/176, https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1460383, https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10782797, https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10783380, 山本政雄「軍艦爆沈事故と海軍当局の対応 : 査問会による事故調査の実態とその規則変遷に関する考察」防衛省/戦史研究年報. 艦名は茨城県の「筑波山」にちなんで名づけられた[28][29]。 また旅順港閉塞作戦における事故(吉野と春日の衝突で吉野沈没)の戦訓から衝角を廃止した[33][35]。 9月1日、「筑波」は軍艦籍より除かれ[11]、艦艇類別等級表からも削除された[100][101]。
10月25日、東京湾で行われた観艦式で、「筑波」は再び大正天皇の御召艦となる[80][81]。, 1917年(大正6年)1月14日、横須賀軍港には本艦以下日本海軍の艦艇多数(筑波、河内、生駒、榛名、金剛、津軽、山城等)が所在だった[82][83][84]。 5。, 『「宇宙戦艦ヤマト2199 第二章 太陽圏の死闘」劇場パンフレット』宇宙戦艦ヤマト2199製作委員会(発行)、, 『「宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち 第二章 発進篇」劇場パンフレット』宇宙戦艦ヤマト2202製作委員会(発行)、バンダイビジュアル(販売)、2017年6月、p. 概要. 1912年(大正元年)に類別としての巡洋戦艦が新設されるまでは[36]、一等巡洋艦(装甲巡洋艦)であった[3][5]。戦艦「薩摩」と本艦(筑波)の2隻は、日本が国内で初めて建造した装甲艦である[37][33]。
筑波(つくば)は、大日本帝国海軍の巡洋戦艦(建造時は装甲巡洋艦)[26][5][27]。筑波型巡洋戦艦の1番艦である。 戦時中は秘匿されていたため、長門型2隻を上回る大和型戦艦「大和」「武蔵」の存在が広く知られるようになったのは、戦後の事である。ただし戦時中でも新造戦艦の完成そのものは公表されており、竣工から20年を経ている長門型戦艦が日本最強の戦艦だと認識されていたわけではない。またアメリカの新造戦艦の情報も日本国内に入っていた事から長門型が旧式である事は日本国民一般に認識されていた[14]。, 列強各国が14インチ(35.6㎝)砲搭載戦艦の建造に乗り出したことに対し[15]、イギリス海軍は技術的・性能的優位に立つために15インチ(38.1㎝)砲搭載戦艦の建造を開始、1911年(大正2年)6月にクイーン・エリザベス級戦艦4隻の建造が承認された[16]。同級は38.1㎝連装砲塔4基と充分な防御力に加え、最大速力25ノットを発揮する高速戦艦であった[3]。 1905年(昭和38年)1月14日、筑波は「子号装甲巡洋艦」として[26]、呉海軍工廠で起工された[29]。 1912年(明治45年)5月18日に進水 。同日附で「伊号装甲巡洋艦」は正式に金剛と命名された 。 爆沈時の筑波艦長有馬純位大佐は、事故から約2年後に病死した[103]。横須賀の馬門山海軍墓地には、筑波・河内(1918年7月12日爆沈)の慰霊碑が並んで建立されている[103]。, 「筑波艦進水式故障の為め失敗」報知新聞1905年12月15日『新聞集成明治編年史. 当初の計画では4軸合計60,000馬力で速力25ノットを予定したが、ジュットランド海戦の戦訓から速力増大の要求があった[4]。そこで汽缶を増載するとともに、新型の減速式タービン(日本製、艦本式)を搭載した[4]。これは日本戦艦として初の試みであった[4]。これより計画案より20,000馬力強化され、1.5ノット増加の26.5ノットを達成した[4]。 綾波(あやなみ)は大日本帝国海軍の駆逐艦 。 特型駆逐艦(吹雪型)の11番艦。艦名は重なりあって寄せる波から由来し、この名を受け継いだ日本の艦艇としては神風型駆逐艦 (初代)「綾波」に続き2代目にあたる。. 日曜日で乗組員の半数が上陸しており、爆発時に艦内に残っていた乗組員は約340名と推定され、そのうち125名が死亡、27名が行方不明となった[85][84][88]。 だが進水台の異常により[54]、筑波の進水式は延期される[55][56]。 同時に、「筑波」は一等巡洋艦に類別された[3][60]。 長門型では主砲塔の減少に伴い、1人あたりの居住面積が拡大した[5]。居住区を広く取れたため、乗員から歓迎されたという[5]。大和型戦艦を除けば、帝国海軍艦艇の中で最良の居住性を有した[5]。, 当初は前檣を三脚マストにする予定だった。だがユトランド沖海戦の戦訓を取り入れ、耐震性に優れる強固な主檣に六本の副檣を合わせた七脚檣を採用した[28]。海外からはパゴダ・マストとよばれ、日本戦艦の特徴となった[28]。前部艦橋は頂上部に円筒状ケース内に射撃方位盤を収めた射撃所とされ、水線からの高さは約41mとされている。数値上は大和型戦艦の艦橋高39mより高いはずだが、「大和」左舷に「長門」が横付けするのを「武蔵」艦橋から観察していた信号兵は「大和の檣楼は長門の艦橋より頭一つ(射撃指揮所、15.5m測距儀)高かった」と回想している[31]。頂上射撃所の下部は射撃指揮所、その下は檣楼指揮所とされ、半段下がって両側が副砲指揮所となっている。その次は列強の中でも大型の10m主砲用測距儀が置かれた高所測距儀所とされ、測距儀はレール上を旋回するという珍しい方式となっている。, 扶桑型の建造でも問題となった主砲発射による爆風の負荷に耐えるため、平賀譲の設計によって、艦橋部支柱をそれまでの3本から、7本に追加したと言われる。その爆風対策に問題はなかったが、新造時には艦橋が外に露出している事から、煙突からの排煙には悩まされた。牧野茂によれば、排煙処理が問題になった時点で平賀譲計画主任は藤本喜久雄部員に対策を検討させた[32]。藤本が前煙突を湾曲させることを提案すると、平賀は「みっともないことが出来るか」と拒否し、覆いをつけるという対策をとった[33]。ところが効果はなく、平賀は煙突を曲げるという藤本の提案を無断で取り入れ、両者の対立の一因となった[33]。この煙突は長門型戦艦のシンボルとなったという[33]。幾度かの改装と共に、艦橋構造は複雑な外観を呈した。艦橋にエレーベーターがあり、山本五十六長官が利用したという証言もある[34]。末期の「長門」には、偽装の為、頂上部の射撃所と電探が取り払われた。, 長門型は、米海軍が今後戦艦主砲に16インチ砲(40.6センチ砲)を採用することを予測して、16インチ級艦砲を搭載することになった[35]。
兵器、機械類や重要物件などは8月中にほぼ引き揚げが終了し[99]、 船体後部は浮揚が可能であり[95]、