気温が上昇すれば、氷河など地上の氷が融け、海面は上昇する。逆に寒冷化すると氷の大地が広がり海面は下がる。20万年前の氷河期には海面は現在よりも130メートルも低く、日本はアジア大陸と陸続きであったことも分かっている。 左、ボルネオ近海の海水温度の変動、過去2,300年(緑線、赤線、青線) (文献29 小氷期にはどれぐらい気温が変わったのでしょうか。それは木の年輪の幅から調べられます。平均すると今より0.6℃程度低かったと言われてきましたが、最近の研究で、地域差が大きいことがわかって、最大で2~2.5℃下がっていたことがわかりました。, なかでも日本は影響が出やすい地域でした。大阪府立大学の青野靖之先生の研究ですが、京都に残っている日記に書かれたヤマザクラの開花日から調べたところ、マウンダー極小期では2.5℃くらい気温が低かったことがわかりました。, では、平均気温が2℃下がるとどうなるのでしょうか。1991年のピナツボ火山の噴火の翌年に、日本では2℃くらい気温が下がって、2年間ほど影響がありました。小氷期はその状態が数十年とか数百年続くということです。, 最大の影響は作物が育たなくなることです。ピナツボの噴火の後、日本ではお米が不足して、タイから輸入したりしました。人間は寒さをがまんできても、植物は「何℃以上の日が何日続けばどれぐらい成長できる」というふうに気温で決まっているので、夏が短くなるとその日数分収穫が減ります。, 気温が低下した小氷期には不作と呼ばれる年が2倍に増え、食糧不足で栄養状態が悪くなり、ヨーロッパでは伝染病等で数百万人単位の死者が出ました。, 面白いのは降水なんです。気温は当時、ほとんどの場所で、大なり小なり下がっていました。でも、雨は、増えるところもあれば乾燥するところもある、というふうに場所によって全く異なるのです。, 小氷期に日本でどうなっていたのか調べるために、伊勢や奈良などの古い木を分析してみました。木のなかの酸素の同位体を調べると、雨が増えていたかどうかがわかるのです。気候が乾燥すると葉っぱの裏の気孔が閉じます。反対に湿潤になると開いて外気を取りこみます。葉の中の水は基本的に根から吸い上げたものですが、外気がまざってくることで成分が変わってくるので、それを分析すると、空気が乾いていたか湿っていたかがわかるのです。, 分析の結果、日本では小氷期に徐々に雨が増えていったことがわかりました。とくに小氷期の終わりごろに雨が大幅に増えて、そのあとは現在に向けて乾燥化が進んできたことがわかりました。温暖化すると雨が増えるというのが一般的なイメージですが、日本の場合は逆のデータが出ました。, それでは、太陽活動が低下すると、なぜ地球の気候が変化するのでしょうか。これはまだだれも説明できていません。, 太陽から来ているのは光であって熱ではありません。地球が暖かいのは、太陽の光が地面に当たって熱になって、じわじわと大気を暖めるからです。ですから、もし太陽から届く光の量が増えれば、発生する熱の量も増えて暖かくなります。ところが、太陽の活動が活発になっても、光の量はほとんど増えないのです。増えるのはおよそ1平方メートルあたり1ワットで、これは気温にするとおよそ0.05℃です。これでは気温が2.5℃も下がることは説明できません。太陽活動が地球の気候に影響しないと長らく考えられてきた理由のひとつはこれです。, Q:タイタニックの発見者として知られる海洋学者ロバート・バラードのもう一つの重要な深海の発見といえば、次のうちどれでしょう。, 過去の降水を調べるため、古い木を分析して酸素の同位体を調べる。(画像提供:宮原ひろ子), 第3回 宮原ひろ子(宇宙気候学):宇宙からの視点で地球の住み心地を考える(対談編), 第3回 宮原ひろ子(宇宙気候学):宇宙からの視点で地球の住み心地を考える(提言編). 日本古代の異常気象 古代の自然と人びと 先史時代・歴史時代を通じて人の心のふるさと、あるいは文明や文化の誕生・展開はその地域の山や川、草原や森林などが織りなす自然景観と切り離して考えられな … とりわけ後者は「小氷期」と呼ばれる程の寒さです。そこで今回は、この17世紀を取り上げてみましょう。歴史上「17世紀の危機」といわれているものです。 過去2000年の平均気温 出典:安田喜憲『森のこころと文明』nhk出版、1996年. 日本における中世温暖期と小氷期 炭素13による 屋久杉年輪中炭素13による気温復元値 (Kitagawa and Matsumoto, 1995) 琵琶湖沿岸の熱伝導計測による気温復値 (Goto et al., 2005) Year AD ←北半球の気温 (IPCC 2007より) 日本のローカルな気温の復元値⇒ 熱伝導計測による. 気温と降水は気候の最重要項目です。寒冷限界値を除くと、これまで難しかった高精度の夏期の気温復元を、水温と気温の高相関を利用した新方式を用いて西日本で行いました(誤差0.2℃程度) 備考1 。 「桜の開花日」等の文献記録と一致しているので、信頼性は高いと言えます。 小期の太陽磁場の特異な構造が,その影響を増幅して いた可能性がある.マウンダー極小期においては,平 均気温が0.6度ほど下がっていたとされているが,そ れに加えて太陽の磁場の反転に同調した約28年スケー ルの気温変化が観測されている(Miyahara et al. 被引用文献3件. 小氷期前半に相当する15世 紀~17世 紀の 変動幅が大きいのに対して,後半の18世 紀~19 図2 樹木(木 曽ヒノキ)年 輪分析による過去800年 間の気温復元 (Sweda,1994) 地球温暖化に対する懐疑論(ちきゅうおんだんかにたいするかいぎろん、Skepticism to Global Warming)とは、地球温暖化や気候変動は人為的なものでない、地球は温暖化していない等とする学説や意見である。 地球温暖化やその原因等に対し異論を主張する論者も存在し、主な異論は当該分野の専 … 日本の小氷期の気候について--特に1661年〜1867年の弘前の天候史料を中心に (日本とその周辺の古気候復元<特集>) 前島 郁雄 , 田上 善夫 気象研究ノ-ト (147), p647-655, 1983-03. Business Journal > 連載ニュース > 藤和彦「日本と世界の先を読む」ニュース > 欧州、平均気温4度低下の可能性 NEW 2021.03.05 05:30 連載 小期の太陽磁場の特異な構造が,その影響を増幅して いた可能性がある.マウンダー極小期においては,平 均気温が0.6度ほど下がっていたとされているが,そ れに加えて太陽の磁場の反転に同調した約28年スケー ルの気温変化が観測されている(Miyahara et al. そもそも地球は誕生以来、大小様々な気温の変化のウネリの中にありました。すなわち、常に「気候は大きく変動してきた」ということです。「異常気象」という言葉がありますが、気候が大きく変動していく中においては、気象に“異常”というものはなく、これが“普通”なんだという意識 元する取り組みが進められ,中世温暖期や小氷期 の実態やその原因に関する見方が一新された。そ れによれば地域ごとの気温の変化には,次の三つ の大きな特徴がある(日本気象学会地球環境問題 委員会編,2014)。第1に,19世紀にいたるまで 日本では小氷期のうちでも最も寒冷な期間,たとえば1830年代と1980年代を比べると冬や春の平均気温は2℃程度,京都に限ると3.4℃も現在よりも低かったと推測されています。 危機の原因 地球寒冷化の原因は色々あります。535 14 世紀から19 世紀にかけて「小氷期」に対応す る低湿傾向が続いているが, 100年スケールの周 97. の小氷期と同じく〔冷涼一多雨〕型であったことは小鹿 島果氏のr日本災異誌」による洪水数,森雨数,旱魅数 の前後の世紀との比較から納得されるであろう. 、天気”19.9. ところで、第48話で世界の平均気温の推移を紹介した際に、「平均気温は全体としては上昇しているが、1890~1915年の約25年間、1940~1975年の約35年間、及び1998~2014年の約15年間、気温の上昇がないか、むしろ下降気味だったのはなぜか?」と書きました。このことを念頭に上の移動平均のグラ … 気温などの気候データを、人口規模、成長率、戦争・社会動乱、農業生産量・飢饉、穀物価格、賃金といった社会変数と比較した。 分析の結果、小氷期が最も過酷だった1560~1660年に、食料不足や健康状態の悪化などの“結果”が端的に表れたと判明した。 小氷期(ミニ氷河期)における過去の日本はどれほど寒かったのか。それを知るために江戸時代の大雪を描く浮世絵と冷害による大飢饉の様子をみていきましょう。そこには2030年以降に訪れるとされる寒冷化時代を生き抜くためのヒントが隠されています。 図2-1から読みとることができるように、「小氷期」の平均気温の低下は、大体1℃であっ 33 岡山大学大学院社会文化科学研究科 『文化共生学研究』第6号(2008.3) 図2-1 ヨーロッパ(イングランド中央部低地地方)の平均気温 文化共生学研究_03永田.qxd 08.3.26 9:57 AM ページ 33. 気温が2℃下がるとどうなるか では、平均気温が2℃下がるとどうなるのでしょうか。1991年のピナツボ火山の噴火の翌年に、日本では2℃くらい気温が下がって、2年間ほど影響がありました。小氷期はその状態が数十年とか数百年続くということです。 気象変動予測で世界で最も高確率で的中を続けるノーザンブリア大学の天才物理学者バレンチナ・ザーコバ教授の予測によると、今後太陽の活動は低下して、2030年以降にミニ氷河期がやってきます。, ところで、そのミニ氷河期は一体どれくらいの寒さなのでしょうか?映画の「デイ・アフター・トゥモロー」のように世界が凍り付いてしまうほどなのでしょうか?, この疑問を解決するためには過去の歴史から学んだ方がいいでしょう。なぜなら過去の人類史においてミニ氷河期(小氷期)は何度もやってきているからです。, 今回は直近の小氷期である日本の江戸時代がどれほど寒かったのかということを知るために冬の様子を描いた浮世絵や冷害によって起きた大飢饉の様子を見ていこうと思います。, 小氷期のピークは直近では1645~1715年です。この頃はマウンダー極小期といって太陽の黒点が大幅に減っていた期間だということは当時の天文学者の記録に残されており、その間太陽活動は極端に弱まっていたことが氷柱コア中の炭素14や木の年輪の解析などで判明しています。, グラフで見ると、14世紀から19世紀の後半まで小氷期となっており比較的寒かったことがわかります。そしてその中でも特に寒かった時期がマウンダー極小期の1645~1715年頃なのです。, ではそのマウンダー極小期とその前後の小氷期はどれほど寒かったのか江戸時代の記録から見ていきましょう。, この頃の浮世絵では深い雪に覆われた江戸の様子がたくさん描かれています。現代の東京では年に一回か二回ほどしか降りませんし、降ったとしても雪が積もることは珍しいです。, この作品は1856年となり、小氷期が終わろうとしている時ですが、雪は積もり、人々は傘を差していることが見て取れます。, この作品はいつ描かれたのかハッキリとは分かりませんが、歌川広重と同様に江戸末期に活躍した浮世絵師です。雪だるまを作れるほどの雪があったようです。今の東京でそれほどの雪が降ることはほぼありません。それにしても、やることは今も昔も同じですね。笑, 鈴木春信は1725-1770年を生きた江戸中期の浮世絵師です。作品の年代は不明ですが、彼が生きた年代を見るとマウンダー極小期が終わって数十年のことです。マウンダー極小期は終えていますが、犬(のようなもの)を作れるほど雪がたくさん積もっていることが分かりますね。, 江戸時代には数々の不作による飢饉と一揆が起こっていることがわかっています。 様々な原因がありますが、その多くが冷害によって収穫が安定しなかったからです。特に江戸を揺るがせた大飢饉の年代を見ていきましょう。, 延宝2年(1674年)、「松本市史近世」の記録によると5月中旬より日々曇り晴天はなく、6月5日から9月末まで毎日雨が降り、稲作と畑作は大凶作になったため、翌年延宝3年には穀物の価格が高騰し、飢饉に陥りました。そして延宝8年(1680年)も飢饉になったことがわかっています。, この記録の中で気になるのは曇りが続いて、その後雨が3ヶ月以上降り続いたという点です。, どういうことかというと、この期間はもう既に黒点がほぼ0のマウンダー極小期の真っ只中で太陽活動は停滞中でした。太陽系外からやってくる宇宙線の侵入を太陽の磁場が防いでいますが、マウンダー極小期のなかで太陽の活動が弱まっている時は磁場が弱まり、多くの宇宙線が太陽系内に飛来します。地球もその影響から免れることなく、宇宙線が多く飛来していたことがわかっています。, そして宇宙線が大気圏に入ってくるとミューオンという粒子になって、そのうちの一部が大気をイオン化します。イオン化された大気中は水滴になりやすく、そのため大気中に雲ができやすくなります。, 宇宙線が大気圏に入ると曇りやすくなるというのは一部の学者の意見であり、学界における定説にはまだなっていないようですが、延宝2年に曇りと雨が4ヶ月ほど毎日のように続いたという異常気象とマウンダー極小期の真っ只中で太陽の磁場が弱まり宇宙線が多く飛来していたということが一致しています。, 元禄年間(1688-1704)の間も東北を中心に凶作・不作が頻発しました。特に元禄8年(1695)と15年(1702)は大凶作となり、それぞれの年で数万人もの餓死者が出て、津軽藩だけでも領民の3分の1の人が亡くなったと言われています。, 具体的にどのような天候だったのかというと、元禄8年は7月下旬~8月上旬頃に霜が降りるほどの冷夏となり、当時の平均収量の3割しか米が採れなかったと伝えられています。, 『道を歩けば、餓死者が野垂れ死に、村では死に絶えた家が後を絶たなかった。肉親が死んでも弔う体力もなく屍骸は放置される。11月になると積雪のため草木の根を取り食べる事もできず、水飲みの生活を余儀なくされた。生き残った家庭でも一家心中や子殺しが続いた。』, この飢饉は全国にまで広がっていき、但馬出石藩では農民による打ち壊しが起こり、米価が急高騰していきます。, 歴史的雑学で余談となりますが、このように飢饉で危機状況の中、江戸幕府が行なった政策は、江戸の中野に犬小屋を作り、凶作の中辛うじて収穫できた数少ない米を犬1匹に対し、1日白米3合、味噌50匁(約187グラム)、干しイワシ1合という豪華な食事を与えました。そう、これは「生類憐れみの令」で有名な徳川綱吉の時代の話です。これらにより一般民衆の間で生類憐みの令は悪法となり、幕府への不満が高まりました。, 動物愛護法の先駆けとなる法ですが、人間より動物(特に犬)を優先していた行き過ぎた政策だったことが伺い知れます。, この飢饉は江戸四大飢饉の一つに数えられる大きな飢饉です。享保16年(1731年)末から悪天候が続き、享保17年の夏、冷害と害虫によって主に西日本(四国、九州、中国地方)、特に瀬戸内海沿岸付近で甚大な凶作に遭いました。餓死者は合計12000人と伝えられていますが、各藩があえて少なく報告したという説もあり、江戸時代の公式史書「徳川実紀」(19世紀前半に編纂)は当時の餓死者は969900人と伝えています。, 翌年、享保18年(1733年)正月には飢饉による米価の高騰に困窮した江戸市民によって享保の打ちこわしが行われました。江戸においても餓死者が多く、その死者を弔うために隅田川花火大会が始まったとされています。, 一方で最大の凶作に遭ったはずの瀬戸内海の大三島だけは下見吉十郎がもたらしたサツマイモのおかげで餓死者を出さずに済みました。これを教訓にして、時の将軍徳川吉宗は米以外の穀物の栽培を奨励し、東日本でも飢饉対策の作物としてサツマイモの栽培が普及したのです。, 以上で今回は3つの飢饉と取り上げましたが、どれも異常気象的な悪天候による冷害が原因となっていることが分かります。他にも近世最大の飢饉といわれる、天明の大飢饉(1782-87年)は浅間山の大噴火による冷害がありましたし、天保の大飢饉(1833-39)も稲刈りの時期に雪が降ったり、大雨・洪水が相まって飢饉が起こり、打ちこわしや一揆が相次ぎました。, 太陽の黒点数が大幅に減少し、2030年ミニ氷河期に差し掛かると予測されていますが、どれほどの寒さになるのかは江戸時代のマウンダー極小期とその前後の状況に近くなるのではないかと考えられます。江戸時代の気温は正確には何度かは記録がないのでわかりませんが、凍えて死ぬほどではなかったようです。ただし、冷害による凶作で多数の人が犠牲になっているので間接的に寒さで命を落としていると言えます。, この記事では当時の様子を「浮世絵」と「飢饉」というキーワードから見ていきましたが、他の観点からも見ることができると思います。, 仮に本当に2030年以降ミニ氷河期になったとして、その後どのように生き抜くのかを考えるにあたって当時の人たちの知恵を参考にするといいと思います。個人的には寒冷化においてはサツマイモなどの地上に比べて比較的暖かい地中で育つ根野菜が飢えを凌ぐのだと思いました。, 歴史の大転換期、新たなる時代の行く末。風の時代、ガイアの法則、ブッダとイエスの教え.
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