が選定された。 第2次廃止対象として廃止申請された33線中、1984年6月22日、27線 (1,540.4 km) を承認、6線を留保したが、留保されたうち北海道の長大4線(天北線、名寄本線、池北線、標津線 548.8 km)が冬季の代替輸送に問題がなくなったとして追加承認(1985年8月2日)、2線(岩泉線、名松線)は代替道路の不備を理由に申請が撤回された。最終的に下記の31線 (2,089.2 km) が第2次廃止対象特定地方交通線として選定された。, 1986年5月27日(3線 124.0 km)、同年10月28日(1線 30.6 km)、1987年2月3日(8線 184.3 km)の3次にわたって廃止承認された路線で、輸送密度4,000人/日未満[注釈 5] の12線 (338.9 km) が選定された。第3次廃止対象特定地方交通線は次のとおりである。, 第3次線は比較的輸送量が多かったこともあって沿線自治体の第三セクター立ち上げも早く、中でも岡多線や能登線・中村線・長井線に至っては逆に沿線から廃止対象線としての選定を当時の運輸省に対して希望したほどである。そのため比較的短期間で全線が決着した。また廃止承認が成されたのは国鉄分割民営化直前であったため、全線がJR発足後に第三セクターまたはバス転換された。, 国鉄改革が取り沙汰される一方で、改正鉄道敷設法の規定に基づき、日本鉄道建設公団(鉄建公団)の手によりローカル線の建設は続けられていた。しかし、特定地方交通線の転換・廃止が議論される一方でローカル線を新たに建設するのは矛盾が生じるため、1980年4月、運輸省(当時)は、建設線のうち鹿島新線(現・鹿島臨海鉄道大洗鹿島線)と内山線(現・JR四国予讃線内子ルート)を除くAB線(地方開発線・地方幹線)の建設を凍結する措置をとった。前記の2路線を除くAB線は特定地方交通線相当の輸送密度4,000人/日未満の路線とみなされ、例外は一切認められなかったが、その中には完成を目前にして建設が凍結された久慈線や盛線、想定輸送密度が3,900人/日と算定されていた智頭線や同じく3,800人/日の井原線もあった。なお、内山線と共に建設工事が続行された鹿島新線に関しては国鉄線としての開業が予定されていたものの、国鉄の経営悪化に伴い、1984年からは鹿島臨海鉄道が建設工事を引き継いだが、幸いにも工事自体は開業まで凍結されなかった。, その後、第三セクター等、完成後の受け皿が決まれば、建設を再開する道が開かれ、これまでに15線が開業している。この中には、途中で線路規格を高速運転用に変更し幹線鉄道仕様に切り替え、開業に時間がかかりながらも転換したものもある。また、こうした新規開業路線には1kmあたり1,500万円の転換交付金が交付されている。, JR化後も経過措置として1989年3月31日までの2年間に凍結解除の道が残されていたが、その間に工事を再開したのは阿佐東線のみ。岡多線・瀬戸線はC線(主要幹線)であり、鹿島新線と内山線を除くAB線の建設工事が凍結した1980年以降も工事を続行していたが輸送密度が特定地方交通線程度と見込まれた1984年に国鉄線としての工事が凍結された。C線の丸森線は工事再開時にA線扱いとなった。, 国鉄再建法施行以降のAB線で唯一、全線が国鉄線として開業した内山線は想定輸送密度が6,700人/日と算定され、なおかつ予讃本線(当時)内子ルートとしての活用が決定されていたにもかかわらずA線扱いであった(ちなみに内山線と共に建設工事が続行された鹿島新線の想定輸送密度は4,100人/日と算定されていた)。工事凍結線となった呼子線のうち、虹ノ松原駅 - 唐津駅間に関しては高い需要が見込まれることから佐賀県唐津市の働きかけによりA線からC線へと格上げされたと同時に建設工事を再開、1983年に国鉄筑肥線として開業した。, 国鉄再建法による線区の仕分けは、線区全体での輸送実態で仕分けられたため、線区の一部(いわゆる「名無し支線」)では特定地方交通線とほぼ同等の輸送実態でありながら選定されなかった線区がある。これらの線区に対する廃止の取組みもされており、その結果次の線区が廃止されている。ここでは、手宮線などの貨物線を除く。, 1987年の国鉄分割民営化後も、特定地方交通線に選定されなかった地方交通線や名無し支線の状況は厳しさを増しており、引き続いて各社での取組みがされている。現在までに廃止された線区は、次のとおり。貨物線および新幹線並行在来線の廃止を除く。なお、深名線・岩泉線・三江線・富山港線以外は部分廃止であるが、江差線は北海道新幹線開業に伴いJRの路線としては全線廃止になった。三陸鉄道に転換された山田線の一部区間、運行主体がJR西日本からのと鉄道に変わった七尾線の一部区間[注釈 7]と、富山ライトレールに転換された富山港線を除く各線が、バスに転換された。, 転換後の第三セクター鉄道の経営環境は、沿線での自家用車の普及や道路整備の進展(いわゆるモータリゼーション)、加えて過疎化と少子化に伴う通学需要の激減により厳しさを増しており、多くの会社で転換時よりも乗客数が減少している。乗客減少による収入減に加え、バブル崩壊にともなうゼロ金利政策によって赤字補填のための経営安定基金の利子収入が大幅に減少し、その取り崩しを余儀なくされて基金が底をつくなど、具体的にその存廃が協議されている会社もあり、今後もその行方が注目される。2008年末現在、民営鉄道に転換された2線および第三セクター鉄道に転換された5線がすでに廃止(そのうち4社が廃業、解散している)され、さらに近い時期の廃止が検討されている路線もいくつか存在する。, 鉄道が存置されずバス転換された路線についても、転換に伴い鉄道時代より増便したもののその後減便された路線(例:白糠線は転換当初は鉄道時代に比べ1往復増の4往復が設定されたが、後に平日3往復・土曜2往復の予約制となった)や、バス路線の維持自体が困難になっている事例もある。路線が近隣を通る既存の一般路線や長距離バスで代替した例(例:宮田線代替バスは、鉄道代替系統が消滅し近接する別路線で代替)、自治体バスで転換した例(例:湧網線代替バスの浜佐呂間 - 中湧別から網走バスが撤退→佐呂間町ふれあいバス・湧別町営バスで代替)、さらには完全にバス路線が消滅した例(例:天北線の鬼志別 - 曲淵間は経路変更により代替バスが消滅。天北線 (宗谷バス)の項目猿払村を参照)もある。, 国土交通省北海道運輸局は、2008年(平成20年)に北海道二十一世紀総合研究所に委託して北海道のバス転換路線の追跡調査を行い、バス会社・地元自治体にアンケートを行った[10]。それによると、一部路線はバス転換直後に乗客が増加したが、2008年現在の輸送人員は、鉄道廃止から間も無い北海道ちほく高原鉄道ふるさと銀河線(旧池北線、2006年4月21日廃止)を除く、全ての路線でバス転換当初より減少していた。地元自治体は、人口減少・高齢化で共通しており、厳しい経営実態が浮き彫りになっている[注釈 9]。回答のあった自治体によると、利用者に対しては通学定期・回数券への補助金、バス会社に対しては車両購入費・運行費への補助金が出されていた[14]。また、北海道外の事例も私鉄を含め挙げられ、バス転換が沿線の過疎化とさらなる利用者減少(過疎スパイラル)を促したことが指摘されている[14]。, そのため、中立的でない偏った観点から記事が構成されているおそれがあり、場合によっては記事の修正が必要です。議論は, ただし、この中では除外事由2及び3は8線区存在するとされる。その一覧による場合は、山田線、日南線、肥薩線の除外事由は1または4である。詳細不明, 貨物輸送密度は「幹線」か「地方交通線」かの基準のみで、特定地方交通線の選別基準は設定されなかった。, 地域政策研究プロジェクト編『鉄道と地域発展』2014年、勁草書房pp.148-149, 池田光雅『鉄道総合年表 1972-93』中央書院、1993年、pp.84,110,111, イカロス出版 結解喜幸・RGG『イカロスMOOKM 失われた国鉄ローカル線』p.103、p.146-147, “津別町 包括ケア導入へ調査費”.
民営JRのなかで、もっとも経営状態が悪いJR北海道の変遷を見てみると、国鉄民営化以前に1万4000人いた従業員が7000人体制になり半減している。40代が少ないため技術継承もできず、極端な人員削減で保線作業も行き届かない。 上記のような諸手続を経て,国鉄は6つの旅客会社 ... 前述の61年ダイヤ改正の考え方にも見られるように,新会社は,分割・民営化により,全国画一のしがらみから逃れ,地域に目を向けた,地域社会に親しまれる鉄道として生まれ変わるべく ... (地方交通線の活性化) 長周新聞社・代表者 三井幸彦 正確な発着時間、安全運行で全国を結んだ鉄道で廃線や減便があいついでいる。経営難のJR北海道は赤字の5線区廃止方針をうち出し、JR九州は今年のダイヤ改定で大量減便を強行した。他のJR各社も災害で鉄道が被災すると、復旧するのではなく廃線にする流れが加速している。「赤字解消」「競争することでサービスが向上する」などと主張して国鉄を分割民営化して30年を経たが、私企業化した結果、事故やトラブルが以前にも増して頻発するようになり、乗客の少ない地方ほど廃線・減便ラッシュに見舞われている。公共交通としての鉄道の役割は依然として大きいものがあるが、私企業化したことによって本業である鉄道業務以外の不動産事業等に傾斜し、全国を繋いできた鉄道網を縮小させる事態が進行している。, 発足当初から「赤字路線」を多数抱えていたJR北海道は現在、5路線5区間(311・5㌔㍍)廃止に向け沿線自治体と協議を進めている。廃止対象は留萌線や石勝線夕張支線の全線などで、一列車あたりの平均乗車人数は10人前後とされている。定期的な交通網が寸断されれば、「陸の孤島」になりかねない地域を結ぶ「命綱」路線でもある。, JR北海道は2016年に10路線13線区(1237・2㌔㍍)について「単独で維持することは困難」と主張し、沿線自治体にバスへの転換や路線維持に向けた支援を要求した。それは「沿線自治体が金を出さないなら廃線にする」という最後通牒に等しく、住民や沿線自治体は反発している。しかも沿線自治体が支援を決めたのは札沼線と石勝線夕張支線のみで、それ以外の3路線は路線廃止後、バスへ転換するメドはない。発足時に3176・6㌔㍍の営業路線を誇ったJR北海道の営業距離は現在、2552㌔㍍となった。それをいずれ半減させ「赤字路線削減」によって、鉄道事業そのものを切り捨てる動きが加速している。, 経営が黒字のJR九州も大幅減便、駅無人化、ワンマン運行拡大を進めている。2016年に株式上場を果たし、株主の利益確保が最優先になったからだ。今春のダイヤ改定では快速・普通列車、在来線の特急、新幹線など合計で1日117便の減便を強行した。宮崎~鹿児島中央間を結ぶ日豊線の特急「きりしま」は24便中20便を「ワンマン運転」に変更し、大分市の牧駅は無人駅に変えた。, 電車通学の高校生が利用する吉松(鹿児島県)~都城(宮崎県)間は減便に加え、二両編成の列車が一両編成になったため、毎朝、百数十人が一両の車両に詰め込まれ、乗り降りに時間がかかって遅刻したり、体調不良になる生徒が続出した。大分県の調査では、県内18市町村のうち16市町、全55高校のうち28校が「影響があった」と回答し、九州・沖縄各県の知事で構成する九州地域鉄道整備促進協議会、九州各県議会議長会も見直しを要求したが、JR九州は「この本数がベスト」と一蹴した。, さらにJR九州は駅無人化も進めた。2015年3月に香椎線の宇美駅(福岡県)を無人化し、昨年3月には約5万人にのぼる住民の撤回要求署名が集まったものの、筑豊線7駅(若松駅等)の無人化を強行した。もともとJR九州管内には有人駅が567駅あったが、またたくまに5割をこす297駅を無人化した。無人駅は監視カメラや自動券売機しかないため、乗り換え路線を駅員に確かめることもできない。視覚障害者が乗車券購入に手間どったり、コンピューターの扱いに慣れない高齢者が列車に乗り遅れるなどトラブルも多い。そのため自治会、PTA、沿線の学校や自治体、身体障害者団体などが各地で駅員配置を求める陳情をくり返しているが、JR九州は無人駅を増やし続けている。, そして民営JRで近年目立つのは、自然災害で路線が寸断されても復旧しないことだ。東日本大震災や九州北部豪雨から復旧していない路線もある。西日本豪雨災害でも、2週間以上経てもJR東海、西日本、四国、九州四社で10路線以上が運休したままだ。, 西日本豪雨でJR西日本は、動脈である山陽線は「早く復旧させる」「11月中の全線復旧を目指す」と明らかにした。一方で、中国山地を走り乗客が採算ベースに乗っていない芸備線、木次線、福塩線は「全線復旧は1年以上先」としたまま、復旧目標は示していない。存廃についても「地元自治体との協議次第」との姿勢をとっている。, 2009年の台風で被災し一部区間不通となった名松線(三重県)をめぐってJR東海は廃線を提案した。沿線自治体が復旧費を一部負担して7年後に再開したが、JR東海単独では復旧しない動きを見せていた。, 2010年の土砂災害で被災した岩泉線(岩手県)は、JR東日本が復旧を拒み廃線になった。東日本大震災で不通になった山田線の宮古~釜石間は、JR東日本と沿線自治体の協議が難航した。第三セクターの三陸鉄道が引き受けて来春再開するが、JR東日本は手を引く方向となっている。また2011年に豪雨で鉄橋が流失し今も不通が続く只見線(福島県)は昨年6月、復旧費81億円のうち国、県、会津地域17市町村が3分の2を負担することで再開が決まった。こちらもJR東日本は総復旧費の3分の1(27億円)を負担するのみで残りは税金で賄わせる動きとなった。, そして昨年7月の九州北部豪雨で一部区間不通となった日田彦山線については、JR九州が復旧費用の負担を嫌がり、いまだに復旧するかが決まっていない。国営もしくは公営であれば、災害で路線が寸断されると早急に復旧するのが当然の責務だったが、民営JRはもうかる路線しか早期復旧しないのが原則になっているかのようだ。そして沿線自治体に復旧費負担を要求し、それが無理なら問答無用で廃線にするというようなことがくり返されている。, 民営JRのなかで、もっとも経営状態が悪いJR北海道の変遷を見てみると、国鉄民営化以前に1万4000人いた従業員が7000人体制になり半減している。40代が少ないため技術継承もできず、極端な人員削減で保線作業も行き届かない。レールの部品もなかなか届かず、補修を先送りする事態が横行している。, そのなかで2011年5月、負傷者79人を出した石勝線の特急列車脱線炎上事故が起きた。トラブルは年間100件以上のペースで連続し、走行中にドアが突然開く、エンジンからの出火、ブレーキ異常、油漏れ、信号トラブル、レール破断などがあいついだ。そして2013年9月には函館線で貨物列車脱線事故が起き、レールの整備不良や線路データの改ざんも表面化した。さらに2011年には、当時の社長が自殺し、2014年には相談役が自殺した。すでにJR北海道は崩壊状態に立ち至っていた。, 分割したJR各社のなかで、都市部を抱えるJR東海、JR東日本、JR西日本と違って、JR北海道は赤字の地方路線を複数抱え、寒冷地の鉄道管理には維持費がかかる。そのいびつな格差はJR各社の経営基盤を示す数値を見れば歴然としている。, となっている。株式上場によって早い時期から完全民営化されたのはドル箱の都市部を抱えているJR東海、JR東日本、JR西日本の3社で、ここに一昨年、減便や駅無人化に拍車をかけているJR九州が仲間入りした。その他の2社の株式は独立行政法人鉄道建設・運輸施設整備支援機構国鉄清算事業本部が100%保有する形態をとり、「負け組JR」扱いのJR北海道とJR四国は「経営安定化基金」などで国に依存しながら経営している。, もうかる本州3社(JR東日本、東海、西日本)はばく大な配当金を株主へ提供する企業へと変貌し、不採算路線を押しつけられた負け組JRは沿線の整備にすらカネが回らない。2500㌔の沿線管理で年間売上が900億円程度のJR北海道がある一方で、2000㌔にも満たない沿線管理で1・3兆円の売上を確保するJR東海もある。国鉄時代であれば、都市部の利益を地方の不採算路線に回し、全国の鉄道をくまなく維持・整備する体制をとっていた。だが単なる民営化ではなく、分割民営化したため、ドル箱地域の利益だけ積み上がり、ごく一握りの経営陣や株主に吸い上げられる仕組みとなった。これは郵政民営化で不採算の窓口会社と郵便事業会社を切り離して徹底的にリストラを進め、郵貯・かんぽ資金に外資が群がって食い物にしていく構図とも酷似している。, この「勝ち組JR」の東海、東日本、西日本は鉄道事業だけでなく駅前開発や商業ビル開発など不動産事業に本腰を入れ、同時に行政の補助金をつかみどりする事業を各地で本格展開している。山口県だけ見ても、岩国駅、徳山駅、新山口駅、下関駅など新駅が次次に出現し、自治体負担がともなう駅前開発でばく大な利益を上げているのが実態だ。広島駅でも外資や中央の大手資本、金融機関が入り乱れた乱開発が過熱している。JR各社はショッピングセンター、旅行業、クレジットカード事業、清掃業、ホテル業、広告業、貸し自動車業、建設業、飲食業にまで進出している。, となっている。JR東日本は本業以外の売上が約1兆円に迫り、JR九州は本業以外の売上が本業を上回った。鉄道会社なのか不動産企業なのかわからない状態になっているともいえる。, 鉄道事業は1825年にイギリスで世界初の鉄道が開通し、蒸気機関車「ロコモーション号」が走り出したことが始まりだ。35台の客車と貨車を引き、約17㌔の区間を時速18㌔で走り喝采を浴びた。その後フランス(1830年)、アメリカ(1831年)へと急速に普及し、日本にも江戸時代末期に鉄道の存在が伝わった。日本に来航した欧米列強国も献上品として蒸気機関車の模型を持参した。それまでの徒歩、馬車、人力車の移動とはケタ違いの力を持つ交通機関であり大きな衝撃を与えた。そして徳川幕藩体制が明治維新革命によって打ち倒され、明治新政府が発足すると「欧米列強から植民地化されることを防ぎ、日本が文明国家であることをアピールする」という建前で鉄道建設が検討された。そして1872(明治5)年に日本最初の鉄道が開通し、新橋駅を基点に横浜駅との29㌔を50分余で結んだ。, 鉄道は当初、すべてが米英直輸入で成り立っていたため、1877年(明治10年)に養成所を作って技術者を育成し、1879(明治12)年には日本人機関士を養成した。そして1881(明治14)年に日本初の民間鉄道会社日本鉄道が発足し、路線を急速に延ばしていった。1893(明治26)年には官鉄神戸工場で国産第1号の機関車を製造し、その後1901年(明治34年)に官営八幡製鉄所でレールの国産化も開始した。このなかで鉄道会社が複数登場した。1905(明治38)年段階の営業距離は官営が2413㌔、民営は5231㌔に達した。, そして日露戦争直後の1906(明治39)年に産業振興を意図して鉄道国有法を公布した。鉄道国有化で輸送コストを全国一律にできれば輸出産業の価格競争力を強化できることと同時に、外資による鉄道運営を避ける意味もあった。国有化以後は国主導でさらに鉄道の普及が進んだ。それは江戸時代(封建制)にバラバラだった各地方を一つに結び、鉱物資源や農水産物を迅速に全国へ輸送することを可能にした。人、モノの移動を飛躍させたことが資本主義の発展を促し、産業を発達させるうえで重要な役割を果たした。戦時中は空襲で1600㌔余りの沿線が破壊されたが、1949年に日本国有鉄道(国鉄)が誕生し、戦後復興でも国鉄は大きな役割を果たした。, だが1970年代から自動車の普及と人口の都市部への集中が大きな変化をもたらした。ローカル線が赤字になる一方で、都市部は通勤地獄と呼ばれる「ラッシュ」になり、国鉄の収益は落ち込んでいった。国鉄は「合理化」に拍車をかけるとともに、その抵抗力となった国労つぶしに動いた。そして日本の労働運動を強力に牽引してきた国労を破壊することとセットで、1987年に国鉄分割民営化を強行した。それはその後、アメリカが全産業に押しつける規制緩和策の前に、抵抗力をなくす地ならしでもあった。, そして90年代の規制緩和と小泉構造改革を実行して以後、タクシー、トラック、バス、航空業界など、極端な安全無視と効率偏重の経営が花盛りとなった。カネもうけ一本槍で社会的有用性や役割を否定して、ひたすら利潤を追い求める企業経営、自由競争に火がついた結果、考えられない事故が頻発するようになった。「小さな政府」路線、すなわち新自由主義改革によって公共性が生命である自治体業務や施設の管理運営などを軒並み民間開放し、企業の利潤追求や競争に委ねる動きが、行政の現場まで侵食しつつある。そして今や、鉄道会社であるはずのJRが駅無人化や減便、路線廃止に動き、みずから本業である鉄道事業破壊に乗り出している。それは民営化の行き着く必然であり、JRだけにとどまらず、NTT、郵政、水道事業、図書館運営、学校の警備、ゴミ収集、職安業務などさまざまな現場で大矛盾になっていることとも重なる。, ここ数年、公共性を否定した営利優先が目に余るものとなり、「社会の役に立つ」という社会インフラ本来の役割を投げ捨てていく動きが強まっている。その走りが国鉄民営化で誕生した民営JRだった。労働運動が力を失い、資本のやりたい放題がまかり通るなかで、親方日の丸企業が私企業として営利だけはためこみ、沿線の復旧や駅前開発では自治体財政に手を突っ込むというようなことをくり返しているのである。, 鉄道は資本主義の発展に貢献し、全国の都市と地方を一つにつないだ歴史がある。新自由主義のもとで、この到達から逆戻りして「もうからない」地方を切り離し、都市一極集中をつくり出した後は沿線すら放り出していく動きが強まっている。公共性を否定する民営化なるものの実態について、JRの姿が象徴的に体現しているといえる。, 長周新聞は、いかなる権威に対しても書けない記事は一行もない人民の言論機関として1955年に創刊されました。