(当エントリは、当ブログ管理人が月刊誌「地域と労働運動」2017年6月号に発表した原稿をそのまま掲載しています。なお、当エントリは「原稿アーカイブ」ではなく、「鉄道・公共交通政策」カテゴリで掲載することとしました。), 日航機墜落事故から35年目の夏 真相究明求め市民団体発足 事故調報告と外務省公文書が示唆する驚きの事故原因とは?, 続・ポスト・コロナの新世界を展望する 変わり始めた世界、変われない日本、そして希望, アベノマスクはやはり利権だった! 最後に社名公表「疑惑の1社」驚愕の事実をすべて明かす, 【安倍風刺お遊びネタ】桜を見る会での安倍首相の姿が某国の「偉大なる首領様」に似ている件について. リンクは、折れたレール―イギリス国鉄民営化の失敗(2006年8月 3日 戸崎将宏の行政経営百夜百冊)。 本書は、このレールトラック社を中心に、民営化の経緯と、何が事故を引き起こしたのかを丹念に …
私は国鉄が民営化された昭和62年生まれ。物心がついた時は、関西の鉄道において「ストライキ」は死語になりました。しかし、私の両親や祖父母世代は国鉄の「ストライキ」を鮮明に記憶しています。今回は、国鉄のストライキに焦点を当てたいと思います。, まずは、国鉄にあった労働組合について説明してみましょう。国鉄の最大の労働組合が「国労」(国鉄労働者組合)です。1946年に結成されました。最盛期には組合員の数は何と20万人以上。すごい組織力ですね。現在でも、国労は存続していますが、組合員の数は約1万人まで減っています。「国労」と並び存在感があった労働団体が「動労」(国鉄動力車労働組合)です。その名の通り、主に運転士が加盟していました。1950年、国労から別れる形で成立しました。少数派ながら当局側と協調姿勢だったのが「鉄労」(鉄道労働組合)です。1957年、新潟を中心に国労からの離脱組が作った団体が母体になっています。他にも、労働組合は存在しましたが、取り敢えずこのあたりで。, 「国労」「動労」「鉄労」。この3つの労働組合にうち、ストライキを積極的に行ったのが「国労」と「動労」です。国鉄当局と「国労」「動労」との対立が激化したきっかけになったのが、国鉄の磯崎総裁が行った「マル生運動」(生産性向上運動)です。国鉄の職場が荒廃の兆しを見せた1960年代末期、国鉄側は日本生産性本部の協力を得て、若手職員を中心に新たな教育を行い、生産性を向上しようとしました。ちなみに、「マル生」と名付けられた理由は使われたテキストに丸の中に「生」と書いてあったからです。管理職は国鉄職員に「国労」「動労」からの脱退、「鉄労」への加入を勧めました。一方、組合員の数が減った「国労」と「動労」は国鉄側が「マル生運動」の名を借りて、労働団体からの脱退を強要している「不当労働行為」だと強く反発しました。そして、1971年10月8日、公共企業体等労働委員会は一部の事案について、国鉄側のやり方を「不当労働行為」と認めました。その結果、磯崎総裁は「不当労働行為」を認め、陳謝する事態に。国鉄側は敗北し、「マル生運動」は完全に失敗に終わりました。一方、国鉄側に勝利した「国労」と「動労」は勢いを増し、ついに長年の夢であったストライキ権の奪還を目指して実力行使に出るのです。そうです、国鉄は公務員扱いだったので、ストライキ権は認められていませんでした。ストライキ権を得るための「ストライキ」。奇妙なストライキが国民に多大な迷惑をかけることになるのです。, さて、「マル生運動」を失敗に追い込んだ「国労」と「動労」。ますます勢いづき、ついに念願のストライキ権を獲得するために実力行使に出ることになります。国鉄は公務員ですので、ストライキ権がありませんでした。公務員に対するストライキ権はマッカーサーによって奪われ、公務員、特に国鉄職員にとってストライキ権の奪還は悲願だったのです。, この頃から、国労と動労はストライキ権を獲得するためのストライキ「スト権スト」を行うようになります。当然、国鉄がストライキによってストップしても、会社は休みにはなりません。そのため、国民は超満員の私鉄やバスに乗り、ますます「国鉄離れ」が進みました。そして、国民を苦しめたのが「順法闘争」です。順法闘争とはルールを極端に守ることを目標にした行動です。例えば、カーブの部分では極端にスピードを落とし、鳥が線路にいる時は「障害物」と判断して列車を止めることもありました。そのため、列車の大幅な遅れ、運休が相次ぎました。乗客は国鉄や組合に不信感を募らせ、乗客による暴動まで発展したこともありました。それでも、国労と動労は乗客を無視し、ストライキ権を獲得するための実力行使を続けたのです。一方、政府側も事態を深刻に捉え、条件付きのストライキ権付与も検討され始めました。, そして、政府に最終決断を促すために、国労や動労を始めとする組合側は1975年11月26日、ついに全面ストライキに。当初の戦術では、最初の4日間が全面スト、あとの3日間で戦術ダウン(国電・新幹線は運行)、そして妥結ができなければ再び全面ストに入る計画でした。11月26日、一部の列車を除き、列車は全面ストップ。貨物列車も全面ストップしました。これに対し、自民党はストライキに対し強硬姿勢に転じ、ストライキ権付与は幻になりかけていました。政府側の強硬姿勢に慌てた組合側は5日間も全面ストライキを行いました。もちろん、一番、迷惑したのは乗客。再び殺人的ラッシュの犠牲になったのです。, 全面ストライキと政府の強硬姿勢が続き、ついに12月1日、組合側はストライキ権を獲得することができず、ストライキを解除。組合側の全面敗北になりました。組合側は鉄道が止まることで流通がパニックになることを見込んでいました。しかし、トラックが大活躍をし、流通が止まることはありませんでした。国鉄の実力を思い知らされたストライキになったのです。このスト権ストを契機に、一気に分割・民営化へと進んでいくのです。, 「スト権スト」の失敗は国鉄の運命を決める契機となったことは間違いがありません。政府は社会党の支持母体である労働組合の影響力を削ぐために、分割民営化を本格的に検討し始めます。政府の考えは当然と言えるでしょう。国民を人質に取るような労働組織が許されるわけありませんから。一方、国労と動労はスト権ストの失敗に無力感を感じました。特に、動労はストライキ戦術が無意味であることを悟り、方針を転換させます。この際、国労と動労は互いに話し合い、ストライキの放棄を決めます。ここで、国労は動労に対し「まず動労が決めないと国労がまとまらない」と言います。そこで、動労はストライキ戦術の放棄を宣言。ところが、国労は内部で意見が分かれ、ストライキ戦術の放棄を宣言することができませんでした。これに、動労は激怒。国労と動労の関係は急速に悪化していきました。, 1980年代に入り、具体的に分割民営化の議論が進められました。1982年の鈴木内閣で分割民営化が閣議決定されました。そして、国鉄側も「国鉄改革三人組」井出氏、松田氏、葛西氏が権力を握り、分割民営化の道を突っ走りました。国労が分裂状態のまま、分割民営化に対して反対の姿勢を示したのに対し、動労は分割民営化に賛成の姿勢を示したのです。あれだけ、強硬路線を貫いた動労の方針転換は驚きの目で見られました。ただ、1980年代から国鉄側の方針に従う姿勢を示したことは間違いありません。情勢を読み、雇用を守るための180度転換とも言えるでしょう。分割民営化直前の動労の大会には、国鉄総裁まで参加したほどですから。一方、国労は分割民営化容認派と分裂派で分裂状態になりました。そして、分割民営化直前の大会で、容認派が国労を脱退。反対派が握った国労はイデオロギー闘争に終始し、多くの組合員は国労に失望し崩壊状態になりました。政府の狙い通り、国労は完全に力を失ったのです。, 1987年(昭和62年)、日本国有鉄道が分割民営化され、JRが発足しました。もちろん、民営化に賛成した職員、特に動労は新会社でも採用されました。しかし、民営化反対の国労に所属した職員は採用されず、冷遇されました。それが、近年まで続いた「国労差別問題」なのです。動労はJR総連で主導権を握りました。国労は今でも存続していますが、ほとんど力がありません。民営化に賛成した鉄労はJR連合を作りました。ともあれ、分割民営化によって、異常な労使関係が終わり、国民を人質にとったストライキがなくなったことは評価されるでしょう。.
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