だが爆弾は大きな損害を与えた。午前9時40分以降、計3発の爆弾が命中、至近弾8発を記録[150]。最初の1発は艦首前甲板左舷に命中して両舷主錨を吹き飛ばし前部エレベーターは陥没して停止、飛行甲板前部も損傷したため、さらに前甲板右舷下方の航空用ガソリン庫に引火し大火災が発生した[159]。2発目は飛行甲板右舷後部(後部短艇甲板附近)に命中し、短艇が火災を起こした[160]。3発目は艦橋後方の機銃台・信号マスト付近に命中、艦橋勤務兵や付近の機銃要員に多数の死傷者が出た[161]。最終的に戦死者109名、重軽傷者114名に及んだ[157][162]。瑞鶴からは水平線上にマストだけ見えていた翔鶴から火柱があがり、黒煙に包まれる光景が目撃された[163]。瑞鶴の見張員が「翔鶴沈没」と錯覚するほどの様子だったという[164]。だが機関は無事(30ノット発揮可能)だったため、第六戦隊第2小隊(衣笠、古鷹)、駆逐艦2隻(夕暮、潮)と共に戦場を離脱する[165]。不時着機の捜索に「時雨」と「白露」を派遣したので瑞鶴の随伴艦は「曙」のみとなった[165]。このあと火災は鎮火したため、3隻(衣笠、古鷹、潮)は反転する[165]。「潮」は燃料補給に向かい、「夕暮」のみ随伴して共に避退した[165]。「夕暮」は「潮」に『翔鶴ハ何処ヘ向ヒシヤ、翔鶴ニ着イテ行ク必要ナキヤ』と発信した[166]。, 退避する「翔鶴」の速度については、翔鶴運用長福地周夫少佐は「艦は三十ノットの速力で猛進している」と記述している[167]。翔鶴軍医官渡辺直寛中尉は「これは偏に航海長塚本朋一郎中佐による操艦の賜物と評判高い。最大戦速34.5ノットで取舵一杯、面舵一杯にして爆弾・魚雷を避けたと云う。」と記述している[168]。翔鶴艦爆整備兵西村敏勝海軍一等兵曹は「たえず変針する三〇ノット以上の全力航行での振動の凄まじさは、爆弾の直撃以上」と記述している。[要出典]。瑞鶴の護衛にあたった第七駆逐隊司令部(駆逐艦潮)付通信兵大高勇治は、損傷した翔鶴が40ノット以上を発揮していたと記述している[169]。, 5月9日、「翔鶴」と「夕暮」は横須賀回航を命じられた[170]。祥鳳沈没と翔鶴大破、多数の艦上機を喪失したことにより南洋部隊指揮官の井上成美第四艦隊司令長官はポートモレスビー作戦の中断を命じた[171]。井上司令長官の姿勢を消極的だと判断した山本五十六連合艦隊司令長官は、断固として追撃するよう命令する[171]。しかしヨークタウンは逃走しており、追撃は空振りにおわった[172]。またポートモレスビー作戦の海上攻略作戦も中止された[171]。後日、南洋部隊機動部隊は山本長官より感状を贈られた[173]。, 5月10日、3隻(翔鶴、夕暮、漣)はトラック泊地を経て内地へ向かう[174]。航海中、フィリピン方面作戦に従事していた第15駆逐隊(黒潮、親潮、早潮)が合流して護衛に加わる[174]。第五航空戦隊はMO作戦後はミッドウェー作戦に参加予定であったが、珊瑚海海戦の被害により不参加となった[175]。5月14日に五航戦から珊瑚海海戦の戦死者の報告が送られ、その損害があまりにも大きかったので、両艦とも到底次期作戦に使えないことが判明した[176]。5月17日、呉に到着した[177][174]。同日に「翔鶴」の修理に三か月必要なことが判明する[178]。「翔鶴」の母港は横須賀だが、ドックは潜水母艦の大鯨(空母龍鳳)改造工事のために使えなかった[179]。そこで呉に回航されたのである[180][174]。
蒼龍には25ミリ機銃は14基あったが、うち3基は艦首に搭載。 ・「赤城」基準排水量3万6500トン、艦載機66(25)。401トン/機。 1943年(昭和18年)2月16日、有馬(翔鶴艦長)[278]は海軍航空本部教育部長へ転任した[279]。後任の翔鶴艦長は、2月12日まで空母隼鷹艦長を務めていた岡田為次大佐となった[280][279]。
第二次ソロモン海戦後、ガダルカナル島攻撃作戦を掩護するため翔鶴の所属零戦15機(指揮官新郷英城大尉)がブカ島へ派遣された[227]。9月4日、5機(戦死5名)を失って10機に減少した零戦隊が母艦に帰艦した[228]。翌5日、南雲機動部隊はトラックに到着した[229]。9月10日、補給を終えた翔鶴以下日本軍機動部隊は出撃してソロモン海域の警戒にあたる[229]。アメリカ軍は空母ワスプ(USS Wasp, CV-7)が潜水艦の伊十九の雷撃で撃沈されるなど積極的な行動を起こせず、大きな戦闘が起きないまま[230]、9月23日に南雲機動部隊はトラック島へ帰投した[231]。, ガダルカナル島の日本軍は劣勢に陥り、日本軍は10月25日を予定して陸海軍の総攻撃実施を決定する。10月11日、翔鶴以下南雲機動部隊はトラック島を出撃し、ソロモン海域に進出した[232][233]。, 10月15日、索敵機が4群からなる船団を発見[234]。そのうち最も近いものに対して「翔鶴」と「瑞鶴」は艦攻9機、艦爆21機、零戦8機が攻撃に向かい駆逐艦「メレディス」を撃沈した[235]。損害は艦爆、艦攻各1機未帰還、艦攻1機不時着水(搭乗員は駆逐艦「磯風」が救助)であった[234]。艦攻9機、艦爆21機からなる第二次攻撃隊は敵を発見できず、本隊からはぐれた艦爆5機のみが輸送艦2隻を攻撃したものの損害は与えられなかった[236], 10月25日夜、アメリカ軍飛行艇が夜間爆撃を敢行したが、被害はなかった[237]。 11月15日、城島(翔鶴艤装員長)は横須賀海軍工廠で潜水母艦から空母へ改造中の祥鳳(剣埼)艦長を兼務することになった[61]。12月27日、翔鶴と共に横須賀海軍工廠で建造されていた空母瑞鳳(元潜水母艦高崎)が完成した[54]。, 1941年(昭和16年)4月17日、城島高次大佐は制式に翔鶴艦長(初代)に任命され、引き続き剣埼(祥鳳)艦長も兼務する[62]。7月5日、翔鶴艤装員事務所を撤去する[63]。 3発目は艦橋後方の機銃台・信号マスト付近に命中、艦橋勤務兵や付近の機銃要員に多数の死傷者が出た 。 最終的に戦死者109名、重軽傷者114名に及んだ [157] [162] 。
・「翔鶴」「瑞鶴」基準排水量2万5675トン、艦載機72(12)。305トン/機。 第二次攻撃隊は瑞鶴飛行隊長高橋定大尉指揮のもと艦爆27・零戦9(翔鶴12機《艦戦3、艦爆9》、瑞鶴24機《艦戦6、艦爆18》)が発進したが、アメリカ軍機動部隊を発見できず引き返した(艦爆4が未帰還、同1が不時着)[221]。アメリカ軍の記録によれば、アメリカ軍機動部隊の西方50浬に日本軍機を探知したが、南方へ退避したため攻撃を受けなかったとしている[221]。また分派した支隊もサラトガ隊の攻撃を受け、軽空母龍驤が沈没するという損害を受けた[215]。24日の戦闘で、沈没艦(龍驤)損害分をあわせ合計59機(零戦30、艦爆23、艦攻6)と水偵3を喪失、ほかに水上機母艦千歳も中破、残存使用可能機数は25日現在で空母2隻合計零戦41・艦爆25・艦攻34となった[222]。翔鶴搭乗員戦死者29名、艦上戦死6名であった[223]。アメリカ軍側は艦載機20を喪失し、日本軍機90機を撃墜したと報告している[222]。, 8月25日、ガダルカナル島へ向かっていた日本軍輸送船団(金龍丸、ぼすとん丸、大福丸)と第二水雷戦隊司令官指揮下の護衛部隊[注 6]はドーントレスやB-17重爆の空襲を受け、駆逐艦睦月と輸送船金龍丸が沈没、軽巡神通が中破した[224]。増援部隊指揮官田中頼三少将(二水戦司令官)は、上空直掩機のない現状でガ島へ突入しても全滅すると判断し、健在艦をショートランド泊地へ避退させた[224]。瑞鶴艦載機が上空警戒にあたるが、低速の輸送船団がアメリカ軍制空権下で突入することは難しく、作戦中止に至る[224]。ここに第二次ソロモン海戦はアメリカ軍の勝利に終わった[225]。 内地での練成により、消耗した翔鶴航空隊も定数を満たした。 同日朝、索敵中のドーントレス2機が空母瑞鳳を奇襲し[239]、爆弾1発を瑞鳳の艦後部に命中させて着艦不能とさせた[240]。 ・「加賀」基準排水量3万8200トン、艦載機72(18)。424トン/機。 12月6日、第三艦隊司令部は、臨時に旗艦を軽巡洋艦大淀に変更した[291]。 10月26日の戦闘における第三艦隊本隊の戦力は、第一航空戦隊の空母3隻(翔鶴、瑞鶴、瑞鳳)、第七戦隊の重巡洋艦1隻(熊野)、駆逐艦部隊(第4駆逐隊〈嵐、舞風〉、第61駆逐隊〈照月〉、第17駆逐隊〈浜風〉、第16駆逐隊〈雪風、初風、時津風、天津風〉)であった[238]。
11月17日、松原博大佐[注 12]が、翔鶴艦長に任命された[287]。 艦橋構造、煙突配置、対空機銃の装備数などは「蒼龍」に準じたものの、対空機銃の配置は特にシステム化されておらず、各艦の空所に二基、三基、四基、五基を単位として配置されているに過ぎず、高角砲配置とともに、やや不均衡な配置となっている。 午前6時以降の索敵では、翔鶴索敵機(機長:菅野兼蔵飛行兵曹長、操縦:後藤継男一等飛行兵曹、電信員:岸田清次郎一等飛行兵曹長)がアメリカ軍機動部隊を発見[145][146]、同機は燃料切れを覚悟で日本軍攻撃隊を誘導し、未帰還となった[145][147]。3名は山本五十六連合艦隊司令長官からその功績を認められ、死後二階級特進・金鵄勲章を授与されている[145]。翔鶴飛行隊長高橋赫一が指揮する日本軍攻撃隊69機(瑞鶴31機《艦戦9・艦爆14・艦攻8》、翔鶴38機《艦戦9・艦爆19・艦攻10》)は空母レキシントン(USS Lexington, CV-2)を撃沈、ヨークタウン(USS Yorktown, CV-5)撃破という戦果をあげた[148]。翔鶴隊は主にレキシントンを、瑞鶴隊は主にヨークタウンを攻撃している[148]。フレデリック・C・シャーマン(レキシントン艦長)は、「(翔鶴隊の攻撃は)みごとに協調が取れていた」と回想している[149]。 「蒼龍」に総員退艦命令が出た後、柳本は一人艦橋に残った。飛行甲板に降りて退艦用意をしていた「蒼龍」飛行長楠本中佐は何としても艦長を艦と共に死なすまいと説得を続けたという。その間に艦橋にも火の手が回り炎上し始めた。 この柳本艦長、蒼龍の自沈命令を出した後、自身は退艦を潔しとせず艦橋に残った。 部下達はなんとか退艦させようと説得しようとしたが、柳本艦長はまったく聞き入れなかった。 なお第一航空艦隊(通称『源田艦隊』)航空参謀源田実中佐の盟友淵田美津雄少佐は、真珠湾攻撃航空隊指揮官の密命を受け、8月25日附で赤城飛行隊長に任命されている[80]。, 9月25日、翔鶴型2番艦瑞鶴が竣工した[81]。春日丸と入れ替わるように第五航空戦隊に編入され、また漣も第7駆逐隊に復帰した[82]。 7月8日、第三艦隊長官小沢治三郎中将指揮下の空母4隻(翔鶴、瑞鶴、瑞鳳、冲鷹)と同行部隊[注 11]は呉を出発した[282]。だが、い号作戦やろ号作戦(ブーゲンビル島沖航空戦)をはじめとした1943年の航空戦により、再建した母艦航空隊は陸上基地航空隊に転用されて消耗[283]。第一航空戦隊(翔鶴、瑞鶴、瑞鳳)がアメリカ艦隊と直接交戦することはなかった[284]。, 11月11日、大型艦3隻(翔鶴、愛宕、高雄)は駆逐艦「島風」と「玉波」[285]に護衛されてトラックを出発、15日に横須賀へ到着して修理整備を実施した[286]。
6隻(空母〈翔鶴〉、戦艦〈大和〉、駆逐艦〈山雲、秋雲、風雲、谷風〉)は12月12日にトラックを出発、翔鶴は17日横須賀に帰着した[293]。, 1944年(昭和19年)1月17日、3隻(翔鶴、秋雲、風雲)は横須賀を出発して内海西部へ移動した[294]。2月6日、空母2隻(翔鶴、瑞鶴)は巡洋艦2隻(筑摩、矢矧)と駆逐艦5隻[注 13]と共に内地を出発する[295]。シンガポール(昭南)着後、リンガ泊地へ進出した[296]。その後、第十戦隊所属の艦艇と共に訓練に従事した[297]。, 日本の敗色が濃くなった1944年(昭和19年)3月1日、日本海軍は第一機動艦隊(司令長官小沢治三郎中将、参謀長古村啓蔵少将)を編成し[298]、小沢中将は翔鶴を旗艦とした[299]これにともない瑞鳳は第三航空戦隊に編入(千歳、千代田、瑞鳳)、第一航空戦隊は空母2隻(翔鶴、瑞鶴)となる[300]。 ・「雲龍」基準排水量1万7150トン、艦載機57(8)。263トン/機。 呉到着時は日曜日であり、艦首主錨を失っていた翔鶴は小用港沖の浮標に繋がれてしばらく待機することになった[181]。真珠湾に帰投後、突貫工事で修理を終えミッドウェー海戦に参加した空母ヨークタウン(アメリカ海軍)とは正反対の対応である[182]。また姉妹艦が大破する様を間近で見た瑞鶴乗組員の衝撃も大きく、一部にはミッドウェー作戦参加をためらうような雰囲気もあったという[183]。, 呉軍港に到着した最初の大損傷艦ということで、「翔鶴」には各方面から見学者が殺到した[184]。さらに山本五十六連合艦隊司令長官も視察に訪れた[185]。城島高次大佐(翔鶴艦長)は損傷をわびたが、次期艦長に内定していた有馬正文大佐は、本艦が義務を果たし武勲をあげたことを賞賛している[185]。 11月14日、五航戦旗艦は翔鶴より瑞鶴に変更された[85]。, 第五航空戦隊(翔鶴、瑞鶴、秋雲)は第一航空艦隊(南雲機動部隊)に所属して真珠湾攻撃に参加した[86]。 9月10日、翔鶴は第五航空戦隊旗艦となった[75]。, 9月12日に内示された昭和17年度海軍戦時編制によれば、翔鶴型航空母艦2隻(翔鶴、瑞鶴)は第11駆逐隊(吹雪、白雪、初雪)と共に第一航空戦隊を編制し[76]、それまでの一航戦(赤城、加賀)は第51駆逐隊(白雲、薄雲)と共に第五航空戦隊となる予定であった[77][78]。しかし旗艦として使用する予定であった完成直後の本艦を訪れた第一航空艦隊司令部は、「翔鶴型の飛行甲板は他の空母と比べて著しく短い」「艦橋付近の飛行甲板の幅が狭く、艦上機の運用に不便」と評価を下しており、その影響もあってか編成替えの予定は中止された[79]。 3月20日、翔鶴は空母龍鳳(12月中旬、被雷。修理完了)および駆逐艦4隻(浜風、漣、響、波風)と共に内海西部へ回航される[281]。3月25日、前年の珊瑚海海戦における南洋部隊機動部隊の戦果に感状が贈られた[173]。, 6月30日、アメリカ軍はニュージョージア諸島に来襲してニュージョージア島の戦いが始まった。