上場企業勤務でも不安。ある日突然、全てを失なった時あなたは?
「生涯収入5億円倶楽部」のメンバーとして、僕たちが現役サラリーマンとして安心・安定を確保しながら、人生を謳歌するために、家族の未来を守るために。
長期のスタンスで投資をする重要性について、改めて一緒に勉強して行こうじゃないか。
もしかしたら、今まで投資を学んで来た中で、長期スタンスの重要性について考えたことがあるかもしれない。
けれども僕たちは、改めてこの重要性を知る必要がある。
長期で投資を行うスタンスを理解する必要がある。
僕たちが生まれ育った日本の景気が悪い・・・低迷し続けていると耳にするようになってから、一体どの位の年月が経つだろうか?
政府から発表されている、指標的には景気は悪くないとも一説では言われていても。実感ベースでは、ずっと景気は悪いままだと感じているのは、お互い隠せない正直な気持ちだと思う。
それもそのはずだ。1990年代から長期に渡り、僕たち日本人の平均所得は下がり続けているのだからだ。不動産価格、株価も下落し、僕たち日本人個人が所有する資産額が目減りしている。
景気が上向いているという発表があった年もある。けれども、日本における僕たち日本国民のどれくらいの人たちがそれを実感し、またメリットを享受できただろうか?
おそらく、僕たちの身の回りにも「景気がよくて最高」と言っている人たちなど、ほとんど見受けられないのではないだろうか?
資源価格は高騰し、世界的にインフレ基調にあると聞く。
ただ、僕たち日本の一般的なサラリーマンの収入は逆である。収入に関しては、増加しない、あるいは減少しているというデフレ基調にあるようだ。
インフレが収入に及ばないと、安心感や、上昇感は当然得られることは無いのだ。
たとえば、高度成長期と言われていた、僕たちの父親の世代、過去の日本の魅力を振り返ってみると。。。
1:終身雇用に裏打ちされた、収入の保証
2:社会保障制度(=年金)の確立
3:右肩上がりの昇給昇進
この三拍子が揃っていた。
偏差値の高い高校・大学を卒業し、一部上場企業を始め大手の企業に就職さえすれば間違えない。
明日の雇用の心配をすることなく、一生懸命会社に尽くすことが正義。尽くすことで得られる対価を銀行に預金し、十分な金利で利殖を行う。
そして定年と同時に年金を受け取り、積み立てた貯蓄と利息で生活を充実させる。
真面目にサラリーマンとして、会社に忠義を尽くし、体調を大きく崩すこと無く、ストイックに無遅刻無欠席を貫き通せれば、僕たちが安心・安定を謳歌できる人生は約束されていたのだ。
たとえば真田孔明の父親も無事に60歳を超え、今なお勤務していた会社にサラリーマンとして就労している。サラリーマンとしては本当に理想的な人生を歩むことができていると思う。
では、僕たちの世代はどうだろうか?真田孔明も1999年入社以来、約12年間サラリーマンをしていた。その間に、かつて僕たちが教わっていたこととは違う世界が待ち受けていた。
1:終身雇用に裏打ちされた、収入の保証
→ 終身雇用などどの企業も約束出来ない
2:社会保障制度(=年金)の確立
→ 55歳以下の若い世代は支払った額をもらえない現実
3:右肩上がりの昇給昇進
→ 右肩上がりどころか、いつリストラ・左遷されるかも分からない
このようなリスクだらけの状態で、現役サラリーマンとして、全てを失う恐怖、自分や家族の生活を人質に取られた状態、そういう非常に不安定で不健全な状態で生き続けることを余儀なくされていることを知った。
「生涯収入5億円」の定義のキッカケにもなっているが、かつて、大卒上場企業勤務のサラリーマンの生涯収入が3億円と呼ばれいたのは今も昔。今日時点ではその半分にも満たない1億4,000万円前後になってしまっていると言う。
「社会に守られていた環境」・・・・が、いつの間にか「自分のことは自分で守らなければいけない環境」に様変わりをしていたということだ。
本来、僕たちはみんな気が付いているはずなのだ。けれども、まだどこかに期待感があり、きっと政府や政治家が何とかしてくれる。。。
あの頃のように景気は再び上向くはず・・・。何か奇跡のようなことが起こって、状況はよくなるはずだ・・・と、問題の先送りの状態になっているのかもしれない。
けれども、そろそろ僕たちは気づかなければならない。時代は確実に変化しているのだと。。。
こんな状況下では政府や政治家は守ってくれない。生き残れるかどうかは、良くも悪くも全て「自分次第」「自己責任」なのだと。。。
こんな環境に置かれている僕たちは、これからどのように自分自身や、家族を自分自身の力で守って行けばよいのか?
この大きなテーマについて、もっともっと真剣に考えなければならない。
こんな時代の中。僕たち生涯収入5億円倶楽部メンバーとして、自分自身と家族を守る対策は既に開始しているだろうか?何度も僕たち自身に問いたださなければならないのだろうか?